【敦賀気比】木下元秀|ドラフト指名を待つ、北信越を代表する左の強打者(前編)

昨夏はエースとして、今夏は打力をいかして4番の外野手として甲子園に出場した木下元秀(敦賀気比)。大舞台でも12打数7安打6打点と「北信越を代表する左の強打者」の実力を発揮した。いよいよ迎えるドラフト会議、木下は静かに指名を待つ。

野球センスの高さはさることながら、木下には人を引きつける、ある“魅力”がある。
「自分、結構うるさい方なので、ずっと誰かとしゃべっているんですよ。静かにいるより、ワイワイやっている方が好きですね」。

 甲子園では囲み取材のたびに多くの記者が木下のもとに集まり、軽快なトークで何度も笑いを誘っていた。甲子園で明るく振る舞う選手は多いが、あれだけ大人を爆笑の渦に巻き込む高校生は、いくら大阪出身でもあまり見たことはない。

 高校通算本塁打は38本。だが、昨夏の甲子園でつけた背番号は1だった。中学時代から投手と外野手を兼任し、高校入学後もいわゆる“二刀流”ぶりを見せつけてきた。関西から多くの有望な選手が門をくぐる敦賀気比。木下を結びつけた縁はどんなものだったのか。

 5年前の夏。当時中学1年だった木下が地元のバッティングセンターで汗を流していると、場内のテレビで甲子園の準決勝の敦賀気比と大阪桐蔭の試合中継が流れていた。大阪の堺市出身の木下にとって当然目に留まるのは大阪桐蔭気だったが、初回に満塁弾などで5点を挙げる敦賀気比の猛打に次第に釘付けになっていった。
「自分、初めは敦賀気比のことを全然知らなかったんですよ(笑)。グレーで縦じまのユニホームの学校は見たことがなくて、カッコいいなと思っていたら、初回から満塁ホームランで大阪桐蔭を圧倒していて、すごいなと思うようになって」。

 それから次第に敦賀気比に憧れるようになり、進学への意思も強くなった。ただ、甲子園常連校に無名の自分が希望してすんなり行けるわけではない。「大阪は強い学校が多いけれど、自分が行けるレベルではなかったし、最初は大阪のそこそこの私立でやれたらいいと思っていいました。現実はそんなに甘くはないことは分かっていましたけれど、気比に行けるのなら行きたいなあと」。

 そんな中、中学2年の冬前に、敦賀気比の東哲平監督が指導したこともあるヤングリーグのオールスター福井と練習試合をする機会があった。試合後、自軍の監督がオールスター福井の関係者に木下の話をしたことで、木下の評判が敦賀気比にも伝わり、中3の春に東監督が練習を見に来ることになった。直前にその話を聞かされた木下は「投げる方でも打つ方でもアピールしなあかんって必死でした」と“サプライズ”に奮起。敦賀気比は猛打に注目が集まっていたが、当時の2年生エース・平沼翔太(現日本ハム)のような好投手もおり「(投打で)どちらででも成長できるので何としても行きたかった」。そして、それは現実になった。

 だが、入学した木下を待ち受けていたのは厳しい現実だった。大阪から遠く離れた福井へ行くことは当初は抵抗を感じていなかったが、慣れない寮生活や身の回りのことをすべて自身でやらなくてはいけない自己管理の大変さを思い知ることになる。そのうえ、中学で所属したチームは野球を楽しむことが目的で、それほどの強豪ではない上、厳しい練習をほとんどやったことがなかった。入学してすぐに与えられたメニューはランニングやトレーニングなどの体作りがメイン。あまりのキツさに木下は当時を「地獄でした」と苦笑いしながら振り返る。
「毎日、冬の練習をやっていたような感じですね。それまではしんどいことをずっと避けて通ってきたので、自分の甘さも感じました」。

78キロあった体重は70キロ近くまで落ち、精神的にも追い詰められた。その上、入学時は投手と野手の練習メニュー両方をこなしていたため、走るメニューと並行してトレーニング漬けの日々だった。心が折れそうになったが、ここで挫ける訳にはいかない。「背番号をもらうために、何とか頑張らんとあかん」(木下)と腹をくくり、厳しい練習にも前向きに取り組んだ。(文・写真:沢井史)

*明日の後編に続きます。