【あの球児、今何してる?】倉見育瑠(明石商業―日本体育大学)

4年前にインタビューした球児達も今はもう大学4年生。あの頃語ってくれた夢は叶ったのでしょうか? 高校時代を今はどんなふうに振り返ってくれるのでしょうか? 間もなく社会に羽ばたくあの頃の球児達に再びお話を聞きました。今回は明石商業から日体大ソフトボール部に進んだ倉見育瑠さんを尋ねました。

3年連続決勝で敗れた高校時代

4年前のインタビューこちら

——4年前になりますが、高校3年生の時に「Timely! web」の取材を受けたことを覚えていますか?
覚えています。話したことが結構そのまま載っていてびっくりした記憶があります(笑)。

——掲載後、周囲の反応、反響などはありましたか?
写真がちょっとぎこちない感じで友達とかに結構イジられました。今でもLINEで送られてきたりします(笑)。

——なんかすみません(笑)。倉見君の名前で検索するとその記事が結構上の方に出てきますけど悪影響は出ていませんか?
いえいえ。あれで自分が明石商で主将をやっていたことが知られてプラスの面も多いです。マイナスは友達からイジられるくらいですから(笑)。

——ちなみに、当時のインタビューをいま読んでみてどうですか?
高校野球を頑張っていたんだなぁと思いますね。

——インタビューでは「2年連続で兵庫大会決勝で負けているので、最後を勝ちきって初の夏の甲子園に行きたいと思います」と話していましたね。
でも自分たちも決勝で負けて、自分の高校3年間ずっと決勝で負けてしまいましたね。準決勝までは粘り強い戦いができていて、決勝の相手が秋に負けた神戸国際でしたので何とか勝ちたかったんですけど、全然相手の力が上でした。決勝戦はほぼ何もできなかったですから。

——高校野球3年間で一番キツかったことは?
冬の練習ですね。週7で練習をやっていてほぼ毎日トレーニングも入ってきていましたので、もう体がしんどかったですね。とくに2年の冬は肩をケガしていて手術をしないと治らないと言われていて、手術をして残りの高校野球を諦めるか、痛くてもサポーターなどを巻いてやっていくのかをどうするか様子を見ているところでしたので、モチベーションが全然上がらなくて、肉体的にも精神的にもキツかったですね。

——高校野球で一番の思い出は?
最後の夏の大会ですね。ずっと歴代で一番弱いチームと言われてきましたし、先輩方が2年連続で決勝まで行かれていましたので簡単に負けるわけにはいかないというプレッシャーがありました。その中で狭間先生についていって、やってきたことをそのままチーム全体で出せて決勝まで勝ち上がれたこと。最後は負けてしまいましたけど、それが一番の思い出ですね。

恩師に勧められたソフトボールへの転向

——進路として日体大を選んだ理由は?
さきほど話したとおり、2年の冬に肩を壊した時に狭間先生と進路の相談をしたんです。そこで大学で野球の距離だと肩が厳しいんじゃないかというのと、大学で活躍するならソフトボールという道もある、日体大のソフトボールは強いしやってみないか? と勧めていただいたことがきっかけです。

——なるほど。大学でソフトボールに転向した裏にはそういういきさつがあったんですね。
もう一つは東京オリンピックでした。日体大のソフトボール部はオリンピックにボランティアとして携われると聞いていたので、それも大きかったですね。

——大学ではじめて親元を離れてみてどうですか?
はじめの頃は1人でご飯を食べることにすごく違和感がありました。1日家にいたら誰とも喋らないですし。高校時代は練習がキツくても家に帰ったらご飯やお風呂が用意されてあって自分は何もせずにあとは寝るだけ、起きたらまた朝ご飯が用意されてあるという感じだったんですけど、大学で一人暮らしをすると当たり前ですけど練習から疲れて帰ってきても自分で食事も用意しないといけないですし、洗濯もしないといけない。高校の時も親のありがたみを感じていましたけど、大学生になって余計に感じるようになりましたね。

——関西と東京の違いはどうですか?
明石商ではスポーツクラスだったんですけど、一日ずっと笑いが絶えない感じで楽しくやっていました。でも東京に出てきてから笑う量が減った気がしますね。みんなクールで(笑)。

——大学では何学部? どんな勉強をしていますか?
体育学部です。基本的には体育の教員を目指す人が多いですね。1年のときは授業のほとんどが実技、2年になるとスポーツ栄養学などの座学が多くなり、3年になると教師になったときにその競技をどのように指導するかという実践指導法などを学びました。

4番キャプテンとしてインカレ優勝とMVP

——野球とソフトボール、何が一番違いますか?
小学校の時にソフトボールをやっていたので自信はあったんです。でも小学校の時はピッチャーの球種が真っ直ぐとチェンジアップだけだったんですけど、大学ではボールが上がってくるライズボールとドロップという野球でいうフォークみたいなボール、スライダーとかの(右バッターの外側に)逃げるボールもあって、1年の頃は全然対応できなかったですね。内野守備もファンブルとかボールの握り替えをしていたら絶対に間に合わないですし、挟殺とかでも少しの判断ミスでホームインを許したりしますので、そのあたりも最初は難しかったですね。野球だと捕ってツーステップくらいで投げますけどワンステップかランニングスローが基本ですし。

——明石商業のキャプテンをしていたくらいなので、入部当初から余裕だったのかと勝手に思っていましたけど、そうではなかったんですね。
日体大のソフトボールは大学日本一と聞いていましたし、余裕なんて最初から思ったことないですよ(笑)。

——マウンドからのバッターまでの距離も短いし、塁間も短いから野球よりも反応、判断の速さが求められますね。
そうですね。守備は特に求められますね。

——大学ソフトボールでの一番の思い出は?
今年9月の全日本大学男子選手権(インカレ)で優勝できたことですね。MVPもいただけましたし。去年までのチームは優勝して当たり前と言われていて、今年はそのレギュラー陣がごっそりと抜けて経験のないメンバーでスタートして、「今年は厳しいだろう」という周囲の声も耳に入っていたので、その中で優勝できたことがやはり思い出ですね。

公務員になっても目指す、ソフトボール日本一

——4年前に将来の夢を聞いたときは「いいところに就職したい」と話されていましたね。
なんか、受け答えが全然できていなくて読んでいて恥ずかしいですね(笑)。

——その夢は叶いそうですか?
岐阜県の市役所で働くことになりました。公務員になる予定です。

——公務員ですか! 確かにいいところに就職が決まりましたね(笑)。ちなみにソフトボールは続けられるんですか?
日本リーグに加盟しているソフトボールのクラブチームがあるので、公務員をしながらそこで続ける予定です。

——インタビューを受けた当時、4年後に自分が日体大ソフトボール部のキャプテンをやって日本一になっている姿は想像できましたか?
全然想像できなかったですね。

——4年後、26歳になっている自分はどうなっていたいですか?
仕事がしっかりできる立派な社会人になっていたいですし、その上で社会人でもソフトボールで日本一になれたらいいなと思います。

——倉見さんにとって高校野球とは何でしたか? ひと言で!
「ターニングポイント」でしたね。やっぱり高2の冬に肩をケガしていなければ今頃は関西のどこかの大学で硬式野球をやっていたいと思いますし、そう考えるとソフトボールにも出会えていませんでしたから。

——自分の輝ける場所で一番になれましたね。
本当にそうですね。野球だったら埋もれていたと思いますし、ソフトボールを勧めてくれて進路を提案してくださった狭間先生には感謝しかないですね。6月に教育実習で明石商業に帰ったときも3週間狭間先生の下で色々と学ばせていただいて、今の自分があるのは狭間先生の指導があってこそだと思っています。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

——母校の後輩たちにも何かひと言。
高校野球を終わったときに「もっと練習をやっておけばよかった」と絶対に思うと思うので、それを少しでも減らせるように日々の練習を頑張ってほしいということと、高校野球は高校の3年間しかできないので、全力で頑張ってください。

——最後にご両親へも何かひと言!
小さいころから野球をやってきて、大学では特にそうですけどたくさんお金もかかったと思います。それでも応援してくれて、そのお陰で大学でソフトボールで日本一になるという結果を残すことができました。本当にありがとうございました。

ありがとうございました!

「初の夏の甲子園に行きたい」と明石商業時代に答えていた倉見くんに再び会ったら、、、

恩師への感謝を忘れない、
大学ソフトボール界で光り輝く立派な選手、青年になっていました。

(取材・文・写真:永松欣也/写真:日本体育大学男子ソフトボール部提供)