【東海大相模】引き継がれる東海大相模の「攻撃野球」
春夏合わせて5度、甲子園を制した実績を持つ東海大相模。2021年夏の神奈川大会を最後に、1999年から監督を務めていた門馬敬治氏が退任し、9月1日から原俊介氏が新監督に就任した。 東海大相模のOBであり、高校時代は強打の捕手として、3年春にセンバツ出場。同年秋のドラフト会議で、読売ジャイアンツから1位指名を受けた。11年間の現役生活を終えたあと、大学で保健体育の教員免許を取得。2016年から東海大静岡翔洋の監督を務め、甲子園を目指して戦い続けていた。 この春、東海大相模は準々決勝で桐蔭学園に敗れ、県内の公式戦連勝が59で止まった(昨夏の新型コロナウイルスによる出場辞退は除く)。指導者が代われば、野球のスタイルが変わるのは当然だが、原監督はどんなチーム作りを目指していくのか。 「強豪校の新監督」シリーズ、今回は監督として母校の東海大相模に戻ってきた新指揮官を訪ねた。
代々引き継がれる東海大相模の「攻撃野球」
「ラバーフェンスの色や、ネットの高さは違いますけど、ここのグラウンドに立つと、高校時代を思い出します。私自身、このグラウンドで育ててもらい、相模での3年間がなかったら、その後の野球人生もありませんでした」
一塁側のベンチに座りながら、ゆっくりとした口調で語り始めた原監督。父親も東海大相模のOBで、原貢監督のもとでキャプテンとして1969年夏の甲子園に出場している。
「父が貢先生に挨拶に行くときに、手を引っ張ってもらって、このグラウンドに来た思い出もあります。私の中には、物心ついたときから『東海大相模』がありました」
昨夏、監督就任の打診を受けたときには、「緊張感しかなかった」と振り返る。東海大静岡翔洋を率いているときは、毎年のように東海大相模と練習試合を行い、その強さを肌で感じていた。
「『門馬さんは、どんな練習をやっているのだろう』とずっと興味を持っていました。実際に相模の監督になって感じたのは、選手自身が『勝ちたい!』という意欲を持っていることです。その本気度が高い。こちらが言わなくても、自らバットを振る選手が多く、自分から動くことができています」
東海大相模と言えば、原貢監督時代から続く『攻撃は最大の防御』の考えがある。村中秀人監督(現・東海大甲府)が攻撃野球を受け継ぎ、前任の門馬監督は、『アグレッシブ・ベースボール』と名付け、進むべき道を明確にした。東海大相模で育ってきた原監督に、攻めの野球はどう根付いているのか。
「守備も攻撃も、アグレッシブに戦うのが相模のスタイルです。門馬さんがなぜ強い相模を作れたかと考えたときに、攻める姿勢を全面に出していたことが、一番大きいと感じます。もちろん、私自身も大事にしていきたい考えです。そもそも、一発勝負は受け身に立って戦えるほど甘くはありません。気持ちで引いてしまうと難しくなります」
生活面からアスリートの自覚を
昨秋に監督に就いてからは、週に2~3回の頻度で、選手とともに寮に泊まり、寝食をともにしている。
「生徒とコミュニケーションを取りながら、どんな性格でどんな感じの子なのか、探るところから始まりました。おそらく、最初のうちはお互いに遠慮があったと思います」
門馬監督とともにチームを作り上げていた長谷川将也部長(現・コーチ)、遠藤愛義コーチの力を借りながら、練習を進めていった。
就任してすぐに指摘したのは、寮での生活だ。野球の面ではこれまでの東海大相模のスタイルを生かしていったが、生活面ではどうしても気になるところがあった。
「靴下を履かずに、はだしのままサンダルを履いていました。体の冷えは足元からくること、万が一、爪を剥がしたらプレーに影響が出ることを伝えて、今は全員が靴下を履くようになっています。じつは、私がプロ1年目、ジャイアンツの寮長に教えてもらったことでもあるんです。アスリートとしての自覚を持つ。高校生ではありますが、日々の過ごし方がグラウンドのパフォーマンスにつながることを伝えています」
いわば、準備の部分である。上のステージでも野球を続けたいのであれば、自己管理能力が必須となる。
「相模の選手は、持っている能力は間違いなく高い。あとは、その力をどうやって公式戦で発揮できるか。監督として、選手の背中を押してあげたいと思っています」
秋、冬、そして春と一緒に過ごしていく中で、「プラスアルファで必要な部分も見えるようになってきました」と原監督。夏の頂点に立つために、新たな考えを加えるようになった。(取材・文:大利実/写真:編集部)
取材後編に続きます。