長田秀一郎|憧れだった六大学、野球も勉強も頑張った鎌倉学園時代
2002年のドラフト会議で慶応大学から自由獲得枠で西武に入団し、その後移籍したDeNAと合わせて14年間NPBでプレーした長田秀一郎さん。2016年オフに自由契約となった後はルートインBCリーグの新潟でも1年間プレーし、昨年11月に現役引退を表明した。自由獲得枠でプロ入りし、これだけの年数をプレーしていれば十分に成功選手と言えるが、中学、高校時代は決してエリートではなく、大学受験を失敗した経験もあるという。そんな長田さんにまずはプロ入りまでを振り返ってもらった。
最初の習い事は剣道、塾は行かずに母が勉強を見てくれた小学生時代
――まず野球を始めたきっかけと本格的に始めたのはいつになりますか?
長田:父親が野球をやっていた影響で子どもの頃から自然と野球をやるようになっていました。ただ最初に始めた習い事は小学校1年生の時の剣道で、野球は小学校3年生の時に地元の少年野球チームに入りました。だんだん野球の方が楽しくなっていって剣道はしばらくして辞めましたね。
――始めた当時からチームメイトの中では目立つ存在だったのですか?
長田:投げることに関しては上手な方だったと思います。最初は外野をやっていましたが、肩が強いということで途中から主に投手をやるようになりました。父親もピッチャーをやっていたそうで、小さいころからよく投げることを教わっていたからかもしれませんね。
――子どもの頃に他に習い事などはしていましたか?
長田:剣道以外は特にやっていなかったと思います。中学に入ってから学習塾に行ったくらいですね。ただ小学生の時は母親が勉強を見てくれていて、学校から帰るとやらないといけない課題のようなものを渡されてそれをやるのが大変だったことを覚えています。その課題を終わらせてから急いで遊びや野球をしに行っていました。学校の成績を飛びぬけて良かったわけではないですが、それなりの点数はとっていたと思います。
――中学校では学校の部活ですか? シニアやボーイズなどの硬式ですか?
長田:中学は学校の軟式野球部でした。あまりシニアなどをやろうという発想がなくて、自然に進学した先の学校でプレーしていたというだけですね。
――中学時代の実績などは?
長田:同じ地区ではそれなりに強かったと思いますが、全国大会に行ったなどということはありませんでした。横浜はチームの数も多くて当時はレベルも高かったのだと思います。3年生の最後の夏の大会も期待されていましたけど、1点差で初戦敗退でした。ただ結構速いボールを投げていたので(横浜市)栄区の選抜チームには選ばれていました。中学時代の実績と言えばそれくらいですね。
――高校では進学校である鎌倉学園に進学されていますが、これはどのようにして決めたのですか?
長田:地元ではそれなりに速いピッチャーということで、県内の高校からいくつか声はかけてもらいました。実は横浜高校も小倉部長(清一郎・当時)が学校まで見に来てくれて、『ピッチャーがいないから(横浜高校は)どうだ?』って言ってくれていました。でも実際は松坂(大輔)が行ったので、もし横浜高校に行っていたらずっと控え投手でしたね(笑)。鎌倉学園を選んだのは親と相談して、野球も勉強も両方しっかりできる学校がいいんじゃないかということで決めました。あとは家から通えるところということも大きかったですね。
――当時の鎌倉学園の野球部は厳しかったですか?
長田:上下関係などはまだまだ厳しくて、最初は苦労したこともありましたけど、割と早い段階から試合でも使ってもらうことができました。練習時間は大体15時過ぎから日が暮れるまでで、20時完全下校だったと思います。特別多いというわけではなかったですが、練習はそれなりに厳しかったですね。ただテストの前などは学校全体で部活が禁止されていたので、その期間はテスト勉強をしていました。
――勉強との両立はやはり大変だったのでしょうか?
長田:最初はついていくのがやっとでした。1年生の時は同じ学年の120人の中でテストの順位は100位以下でした(笑)。でもこの時にしっかりと勉強をする習慣がついたのは良かったと思いますね。そういう意味では野球も勉強もできるという環境で選んだのは正解でした。
二時試験でなんとか滑り込んだ慶應大学

――その後、県内では評判の投手と言われるようになりましたが、高校からプロ野球というのは考えなかったですか?
長田:高校の時は同じ学年に加納(大祐・専修大→シダックス→松下電器)といういいピッチャーがいて、交互に背番号1をつけているような感じでした。それなりに自信はありましたけど、子どもの頃から父親に東京六大学で野球をやることを目指すように言われていたのでプロは考えなかったですね。ただ当時は今のようにプロ志望届はなかったので、ドラフト会議の当日は監督から一応呼ばれた時の準備はしておくようにとは言われていました。
――慶応大学に進学したのもお父さんから言われたことが理由ですか?
長田:そうですね。六大学でやるならやっぱり早慶戦だろうということで早稲田と慶応を受けました。実は両方とも最初は不合格で、慶応は二次試験で何とか滑り込んだという感じです。早稲田に受かっていたら早稲田に進学していたと思います。
――受験勉強はかなり大変でしたか?
長田:高校野球が終わってからはずっと受験勉強をしていました。AO入試だったので主に小論文なのですが、色んなテーマで何度も書いて先生に添削してもらいました。だから甲子園もそんなにしっかり見ていなかったです。ただ横浜とPL学園の延長17回はいつ終わるのかなと思いながら見ていた記憶はありますね。
――高校時代、松坂投手というのはどんな存在でしたか?
長田:実際に対戦したことは一度もないのですが、2年生の夏までは正直そこまで凄いという印象はなかったです。ただ新チームになってからどんどん凄くなっていって、春の甲子園が終わる頃には雲の上という感じでしたね。3年生の夏の開会式の時は一緒に写真を撮ってもらいました(笑)。
苦労のすえ慶応大学に進学を決めた長田さん。後編では大学生活、プロ野球、そして引退後のことをお伝えします。
(聞き手:西尾典文、写真:編集部)
長田秀一郎さんプロフィール
1980年5月6日生まれ。神奈川県横浜市出身。鎌倉学園、慶応大でエースとして活躍し、2002年のドラフト会議では自由獲得枠で西武に入団。西武、DeNAで14年間プレーし、通算25勝25敗2セーブ85ホールドの成績を残した。2017年はルートインBCリーグの新潟でプレーし、昨年11月に引退を表明。現在は解説者として活動しながら、アマチュアの現場での指導にも携わっている。