時を超え、西勇輝に伝わった猛虎魂――ハワイのトラで交わった若林忠志との縁

 【内田雅也の広角追球】フリーエージェント(FA)権を行使して阪神入りした西勇輝(前オリックス)が今月15日、自主トレ先ハワイから発信したインスタグラムに見入った。トレーニング先の写真に、勇ましいトラのデザインが映っていた。「今回もお世話になっている学校は、なんと阪神タイガースの虎のロゴのモデルになっている所です」とある。

1936年3月の球団結成披露宴で配布された球団歌の歌詞とメンバー表(若林忠晴氏所蔵)。トラ・マークが描かれている。

 ホノルルのマッキンレー高校である。西の投稿の通り、阪神のトラマークは、同校のマスコットを基にデザインされたものである。

 タイガースのトラマークが初めて表に出たと思われるのは、創設初年度1936(昭和11)年3月25日に開かれた球団結成披露宴である。東の帝国ホテルと並称されたほどの名門、甲子園ホテル(今の武庫川女子大甲子園会館)で政財界、地元の名士ら約200人を招いて開かれた。球団歌「大阪タイガースの歌」がお披露目となり、レコードを土産に渡した。この時配られた歌詞付きメンバー表にトラマークが描かれていた。

 トラマークを提案したのは創設メンバーの投手で後に監督も務める若林忠志である。マッキンレー高校はハワイで生まれ育った若林の母校。そのマスコットがトラ、各部のニックネームがタイガースだった。

 創立1865年。米25代大統領ウィリアム・マッキンレーの名を冠する州立高校である。プリンストン大(ニュージャージー州)と密接な関係にあり、マスコットも同大にならったのではないかとされている。

 阪神のトラマークの由縁については球団に資料が残っていないが、若林の次男・忠晴(80)は「父が球団に持ちかけたと聞いている」と話していた。

 阪神電鉄は36年1月10日、若林の入団発表と同時に球団愛称がタイガースと決まったと発表していた。若林はマッキンレー高校の同窓だった保科進(2009年、94歳で他界)にトラマークのデザインを頼んだ。

 保科は35年に来日し法政大アメリカンフットボール部創設に尽力、初代監督に就いていた。若林とは親交が深く、それぞれの夫人は従姉妹(いとこ)同士だった。

 忠晴によると保科は「非常に絵がうまく、多彩な方だった」。音楽にも通じており、高校の後輩で、戦前戦後と人気のハワイアンバンドでリーダーを務めたバッキー白片(本名・白片力)を指導したそうだ。

 保科自身も生前、親族に「阪神のトラはオレが描いた」と話していたという。披露宴パンフレットのトラは保科の作品とみて間違いない。

 このハワイから伝わった初代トラマークを完成させたのが早川源一である。京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大)を卒業後、阪神電鉄事業課デザイン室で「甲子園・香櫨園海水浴場」「沿線案内」など広告ポスターなどで多くの優れた作品が残っている。

 早川が退職する際、職場の後輩だった石飛弘信に託したトラマークの原画が今も遺族が保管されている。驚くことに現在もほぼ変わらぬデザインだった。

 あらためて西を思う。巨人・菅野智之との合同自主トレは4年連続。年末12月23日に出発し、今月19日に帰国、約1カ月間滞在した。マッキンレー高校でトラマークに出会い、インスタグラムで「縁がありますねー」と投稿していた。

 若林と西には共通点もある。若林は制球力が抜群で「七色の魔球」を操る頭脳派投手。制球力や投球術にたけた西と相通じるものがある。

 一方で、若林はマッキンレー高校時代、当初はアメリカンフットボール部に在籍し、闘志を前面に押し立てるような選手だった。「すべてを懸ける」「とことんやる」といった意味の「Go for broke」を身上に敢闘していた。

 西もハワイ自主トレ打ち上げに際し、インスタグラムで「アグレッシブ」をテーマに掲げていた。柔らかな笑顔の裏に隠された、熱き闘志がうかがえる。

 それが伝統の猛虎魂である。時を超えて、ハワイのトラで交わった2人の右腕。不思議な縁を感じた。   =敬称略=

     (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。若林忠志の社会貢献や慈善活動にも光を当てた『若林忠志が見た夢』を2009年オフに大阪紙面で連載。大幅に加筆し11年に書籍化(彩流社)された。球団歌、旗やマスコット作成を助言した若林はタイガースの基礎をつくった人物でもあった。