山から海へ向かって下る、正式なマラソンコースではない「高速マラソン」とは

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ベンチュラという街で開催されたフルマラソンを走ってきた。ロサンゼルスの北側、1時間ほどの距離にある太平洋に面した街だ。レースの名称は“Mountains 2 Beach Marathon”。“山から海へ”と言う通り、スタート地点は山の中、ゴールは海のすぐそこだ。最初の5キロほどを除けば、スタートからゴールまでほぼ1直線の片道コース。しかも、その殆どで下り坂が続く超高速レースでもある。

本来なら、これは正式なマラソンコースとは呼べない。国際陸上競技連盟が公認するコースの条件には、下の2つがある。

1)スタート地点からゴール地点までの標高の減少は競技距離の1000分の1以下(マラソンでは 約42m 以下)であること

2)スタート地点とゴール地点との距離は、直線で競技距離の2分の1以下(マラソンでは約21キロ以下)であること

このコースは、どちらの条件も満たしていない。だから、このレースで2時間を切ったとしても、世界新記録とは認められない。オリンピックの標準タイムを突破したことにすらならない。

世界6大マラソンの1つでありながら、これと同じように国際陸上競技連盟の公認条件を満たさないレースがあることを知っているだろうか。毎年4月の第3月曜日、Patriots Day(愛国者の日)に行われ、今回で123回目の開催となったボストンマラソンである。世界で最も歴史が古く、最も有名なこのレースは、コース後半に『心臓破りの坂』があることで名高いが、実は全体的には下り基調の直線的な片道コースなのである。つまり、比較的易しくて、記録が出やすいのだ。

ぼくがわざわざ自宅から片道2時間以上も離れたベンチュラまでやってきた理由は、このボストンマラソンだ。ボストンマラソンは優勝を争うエリートランナー達以外にも、約3万人の一般市民ランナーが参加する。だが、その一般の部に参加するにも、他のレースで厳しい出場資格タイムを突破することを求められるのだ。今年の出場資格タイムは18-34歳の男性で3時間05分、女性は3時間35分だ。それより上の年齢は5歳ごとに5分ずつ長い時間に調整される。

そして、その出場資格タイムは来年の2020年度からさらに5分ずつ短縮される。つまり、今年から18-34歳の男性は、 『サブ3』を達成しないと、来年のボストンマラソンでスタートラインに立つことすら出来ない。現在52歳のぼくですら、今年中に男性50-54歳部門の出場資格タイムである3時間25分を切らなくてはいけない。

陸上競技経験者はともかく、市民ランナーならこの条件の厳しさがわかってもらえるだろう。米国の市民ランナー達の間では、ボストンマラソンの出場資格タイムを突破することを”BQ” (Boston Qualified)と呼び、それを成し遂げることは大きな勲章になるぐらいだ。高校野球児にとっては甲子園に出場するようなものだし、受験生にとっては東大に合格するようなものなのだ。全然そうじゃないかもしれないけど、本人たちはそう思っているのだから、そういうことにしてほしい。

そういうわけで、どうしてもBQを達成したいぼくは、楽で記録が出やすいという、ただそれだけの理由でこのMountains 2 Beach Marathonを選んだのだ。前述したように、これは国際陸上競技連盟の公認レースではないが、ボストンマラソンの公認レースではあるのだ。ここなら、実力は同じでも自己ベストが出るかもしれない。そして、ボストンマラソンにも手が届くかもしれない。そんな目論見だ。

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Mountains 2 Beach Marathon のコース地図。スタートとゴールの高低差は約215メートル。

「なんて姑息な」とか「卑怯じゃないか」などとは思わないでほしい。むしろ、「そこまでして、ボストンマラソンに出たいのか」「一銭の得にもならないのに。それどころか、旅費や参加費がかかって大変なのに」とその健気さに同情してほしい。

さらに言い訳を続けるようであるが、少しでも楽な方法でBQを目指しているランナーは、けっしてぼくだけではない。というか、そもそもこのレース自体が「このコースはBQを出しやすいですよ」と、それが売りなのだ。

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レース前日、準備が進められていたゴール付近

レース前日には、会場でゼッケンを受け取る。ゴール付近では準備が進んでいた。ゴールはビーチの目の前だ。果たして明日は、このゴールを目標タイムで上回って駆け抜けることが出来るだろうか。

コースを下見しつつ、車でスタート地点まで行ってみた。Ojaiという山に囲まれた小さな町がレースの起点になる。通り過ぎただけだから本当のことはわからないけど、果樹園と牧場ぐらいしか見当たらない。ぼくはロサンゼルス近辺に住んで25年以上になるけど、市内からたった1時間ほどに、これほど山深い場所があるとは知らなかった。

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スタート地点。周りはオレンジ畑。

いよいよレース当日、ランナーはまずバスに乗ってスタート地点まで運ばれる。朝6時のスタートに間に合わせるために、バスの出発時刻は朝4時。それより30分前にはバス停に集合してください、なんてことになる。間に合わせるために午前2時には起床する。早朝なのか深夜なのか微妙な時間だ。「そこまでしてボストンマラソンに出たいのか」と言われたら、「はい、その通りです」と答えるしかない。

この日フルマラソンを走ったのは1602人。BQを狙っている人が多いせいだろう。市民マラソンの割には、そこそこのレベルのランナーなのだろうなと思わせる引き締まった体格の男女が多い。ランナー同士の会話も「ペースはどうしよう」とか、「どこの地点で上り坂がある」とか、そんな話題ばかりだ。BQという単語もあちこちで聞こえてくる。他の大都市レースのように、ゆっくり歩きながらレースを楽しんで完走だけはしようってタイプの人は、ここでは少数派だ。

さて、長々と前置きというか、言い訳のような文章が長かったが、結末はいたって簡単だ。なにしろタイムを追って真剣に走っていたので、いつものようにレース途中で写真を撮ったりするヒマなどなかったのだ。それどころか周りの風景すら殆ど記憶がない。

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レース中の筆者。どれだけ必死だったかわかってもらえるだろうか。

結論を述べれば、自己ベストは更新したが、残念ながらBQには手が届かなかった。前述した通り、男性50-54歳部門のBQタイムは3時間25分。ぼくのタイムは3時間26分57秒。憧れのボストンマラソンに参加するには、2分遅かったというわけだ。

たった2分だけど、その2分を縮めることの意味をランナーならわかってもらえると思う。けっして簡単なことではないけれど、こうして乗り越えるべき目標を持てるのは幸せなのだと言うべきだろう。けっして負け惜しみではない(少しは入っているかもしれない)。

ゴール付近では、BQを達成した人が記念撮影をするブースまである。快挙を成し遂げたランナーは、銅鑼を思いきり叩く。知り合いの人もそうでない人も、取り囲んだ皆が大声で祝福する。いいなあ、来年は俺も思いきりあの銅鑼を叩きたいなあと思いつつ帰路に着いた。

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ボストン行きの目標を果たしたランナー。