【県立相模原】佐相眞澄監督から学ぶ強豪・私立と互角に戦うために必要なこと

激戦区の神奈川で進学校ながら強豪校と互角の勝負を繰り広げている県立相模原。この夏も横浜高校を破り準決勝進出を果たして大きな話題となった。県立相模原を指導する佐相眞澄監督にこれまでの経験を生かしたチーム作りについて聞きました。

軟式でも打ち勝つ野球!幅広い交流でレベルアップ

佐相監督は日本体育大学卒業後、1981年に相模原市立新町中学に着任。当初は水泳部の顧問を務め、5年後に野球部の顧問を務め市内大会を制覇した。

その後に異動した相模原市立大沢中で92年に全日本少年軟式野球大会で3位、相模原市立東林中では97年の全国中学校軟式野球大会でベスト8、翌98年に同大会で3位、さらに2001年にはKボール全国優勝を飾り、世界大会では3位となるなど、数々の実績を残してきた。

中学軟式野球というと比較的ロースコアで1点を競いあう展開が多い。当時から佐相監督のモットーは選手の将来を考え、「打ち勝つ野球」を掲げている。
「当時から5点、6点とる野球を心がけていました。打てる選手じゃないと高校野球では通用しない。(県立高校を指導している)今の立場とは逆で、私立で活躍できるような選手に育てることを意識していました」。

中学の教員時代は生徒指導を担当していたので、普段の生活から生徒にどういう声をかけたら受け入れてもらえるかよく考えていた。

関東大会、全国大会と勝ち進むうちに指導者同士のネットワークも広がり、そのことも大きなプラスだった。
「修徳中(東京)の監督だった小田川(雅彦・現堀越高監督)先生、星稜中(石川)の監督だった山本(雅弘・現遊学館高監督)先生、千葉の常盤平や松戸六中で監督をされていた石井(忠道・前松戸国際監督)先生などと、それぞれがテーマに沿って資料を持ち寄って、よく勉強会をしていました。山本先生は映像の使い方、石井先生は守備について、小田川先生には、夏に勝つには一度春が終わった後にチームの状態を落とした方がいいと教わりました」。

佐相監督は打撃のことをよく話すなど、指導者同志が情報交換することで互いのチームがレベルアップしていった。

立ちはだかる私立の壁、体力強化の重要性を実感

中学の指導者時代に交流のあった小田川監督、山本監督、石井監督が高校の指導者に転身し、佐相監督も自身で希望して2005年に川崎北高校に転任。しかし当初は全てが上手くいったわけではなかった。
「最初の3年生は、自分たちのやり方で2年間やってきているわけですから、こちらが何か言っても変える勇気は持てなかった。思い通りにいかなくて『やってらんねえよ!』とグラブを地面に投げつけた選手もいました」。

そんな苦難を乗り越え、中学時代に培った丁寧な打撃指導で結果が出るようになり、徐々に選手たちの信頼も勝ち取っていくこととなる。しかし次に立ちはだかったのは強豪私立の壁だった。
「高校は私立の存在が大きい。身体つきや体力が違うなど、中学の時にはなかった差を感じました。約8割は技術練習に割いていたのですが、体力強化の時間を多めに取り入れることにしました」。

現在も水を入れたポリタンク、パワーロープ、ハンマーなどを使った動的パワートレーニングを日々実施するなど積極的に体力を強化。食事にも気を遣って身体を大きくする取り組みにも力を取り入れている。(取材・文:西尾典文/写真:小沢朋範)

*後編へ続きます

佐相眞澄監督のチーム作り理論3か条

1.他のチームと積極的に交流し、学ぶ
2.日々、動的トレーニングを取り入れる
3.学校の核になる意識で全員が束になる

佐相眞澄

1958年生まれ。神奈川県相模原市出身。中学野球の指導者として実績を残し、2005年に川崎北に赴任。2007年秋には県大会ベスト4に進出。2012年に地元の県立相模原に異動し、2015年春には県大会準優勝。今年の夏も横浜高校を破りベスト4入りを果たした。

SCHOOL DATA
●監督/佐相眞澄
●部長/小島秀一
●部員数/2年25人、1年13人、マネージャー4人
1964年に開校と同時に創部。2015年に春季県大会で準優勝し関東大会に初めて出場を果たした。19年の夏の大会では横浜高校を破り準決勝に進出するなど「県立の雄」として注目を集めている。