【鳴門】厳しい練習と食への意識で心も身体も逞しい成長を
2019年、2年連続13回目となる夏の甲子園出場を果たした徳島県立鳴門高等学校。惜しくも2回戦で敗退したが、エースの熱投と堅実なプレーが印象に残った。同校の強さは、どのようにして育まれたのだろうか。
黄金期から低迷期、そして再び黄金期へ
鳴門高校と聞いて、まず思い出されるのはイニングチェンジの際の全力疾走。ベンチへ向かって駆ける姿が非常に清々しく「全力疾走の鳴門」とも呼ばれている。
「これが始まったのは昭和の黄金期。甲子園の大舞台に緊張した選手たちが、知らず知らずに全力で走っていたというのが裏話です」と話すのは同校のOBでもある森脇稔監督だ。鳴門高校は、前身の撫養中時代の1938年に甲子園初出場を果たし、「うずしお打線」と称される打撃力で1950年夏に準優勝、1951年春に優勝、1952年春に準優勝と黄金期を築く。だが、そんな古豪も一時期は低迷期に入る。特に、森脇監督が最初に監督に就任した1985から1995年春までは1度も甲子園出場を果たすことができなかった。状況が一変したのは森脇監督が再び監督に就任した2007年以降。チームは春夏合わせて13年間で10回の甲子園出場を成し遂げる。まさにチームは、第二の黄金期を迎えているが、そこにはどんな秘策があったのだろうか。


「一番は基礎体力づくり。うちは公立高校ですから、スター選手はいません。そこで選手全体を底上げし、チーム力で勝負しようと考えたのです」。
体力づくりの基本となったのが冬場の走り込みだ。練習グラウンドの裏手にある坂道約200メートルを10往復するのがルーティン。その厳しさに顔を歪めながら全力で走る選手たちは、「この苦しさに耐えているのだから、少々のことではへこたれない」という思いを抱くようになった。坂道ダッシュは、脚力だけではなく部員たちの精神力を鍛える好機ともなったのだ。

チームの成長に手応えを感じていた2017年、鳴門高校は春夏ともに甲子園出場を逃した。「まだ何かが足りない」と考えた森脇監督は、以前から興味を持っていた「食トレ」の導入を検討する。「県内のライバル校が食トレを導入し、選手の身体つきが変わっているこ
とに気づいたんです。うちもぜひ導入したいと思い、保護者に相談しました」と森脇監督。そんな監督の思いに、保護者は全面的に賛同し、その年の秋から本格的な食トレに取り組み始めた。
食トレの導入により心身ともに大きく成長

森脇監督は、食トレを始めてすぐに小さな変化に気づいた。まず、部室のゴミ箱にお菓子や炭酸飲料などのゴミがなくなっていたのだ。選手たちは、練習の前後にこれまで口にしていたお菓子ではなく小魚やナッツ、オレンジなどを食べるようになった。また冬場、風邪やインフルエンザにかかる者もいなくなり、春には他校の監督さんから、「腰回りが随分しっかりしているなぁ」と声をかけられたという。今夏の地区予選では熱中症にかかる選手もおらず、故障も減った。こうした身体の変化は、プレーにも如実に現れた。投手はスタミナがついて、それまでよりも長いイニングを投げられるようになり、打者は打球がひと伸びするようになった。


メンタル面でも変化は出てきた。県選手権大会準決勝の徳島商業戦は延長10回の裏に1点をもぎ取り、サヨナラ勝ちを収めたが、まさに粘りの勝利。自分たちの頑張りを信じた選手たちの諦めない気持ちを感じた一戦だ。「もちろん、食事面でサポートしてくれているご家族を甲子園に連れていきたい、という選手たちの気持ちも出たのでしょう」と森脇監督は振り返る。

監督自身もセミナーの受講などを通して、食の知識をより深めている。「普段、口にするものがどれだけ大切か、何をどうとれば健康な身体づくりができるのか、目の前の選手たちがそれを証明してくれています」と話す森脇監督。厳しい練習と食トレにより成長した選手たちを見守りながら、今後も「心身ともに逞しいチームづくり」を進めていく考えだ。(取材・文:阿部美岐子 写真:国貞 誠)

野球部・監督 森脇 稔 (もりわき みのる)
1961年徳島県鳴門市生まれ。鳴門高校から法政大学へと進学。1985年から1995年まで母校で社会科教諭、野球部監督となる。2007年に鳴門高校に復帰。甲子園10回出場。
鳴門高校
所在地 徳島県鳴門市撫養町斎田字岩崎135‐1
学校設立 1909年
直近の戦績 2019年夏・県大会優勝、全国高校野球選手権2回戦