【柴田】足と守備で私学打破。決勝敗戦も 「お前たちすごいぞ。俺は誇りに思うぞ」
昨秋、創部初の東北大会準優勝を果たした柴田は、2002、2013年には夏の宮城大会で準優勝の実績を持ち、ロッテなどで活躍した守備の名手・小坂誠選手や、元楽天・熊原健人投手らを輩出した体育科のある公立校だ。今春のセンバツ大会に選考されれば初の甲子園出場となる同校の打倒私学を目指す思考、走塁を軸とした戦術、質と量にこだわった練習には、全国の公立高校が真似できる要素が多くちりばめられていた。全3回にわたってレポートする。
「野球特待なし、室内練習場もなし。その環境で強豪と言われる私学を倒すことがどれだけ大変なことか。柴田が見せた快進撃は、多くの公立高校の希望になりましたよね」
昨秋の東北大会。県3位の小山(こやま)から、学法石川(福島3位)、八戸学院光星(青森1位)、東日大昌平(福島1位)、日大山形(山形1位)に4連勝。決勝で仙台育英(宮城1位)に敗れはしたが、柴田の戦いを見たある宮城公立校の野球部監督が興奮して話していた。決勝進出したことにより、センバツの推薦条件は満たしている。東北出場枠は「2」。選ばれれば、創部35年で悲願の甲子園出場だ。平塚誠監督(48)は就任11年目。夢が実現するか。いま、多くの指導者が柴田に注目している。

あと一歩で負け続けた11年。
「宮城の悲願校」と呼ばれて
宮城県の南部。仙南圏と呼ばれる柴田町に学校はある。町民約3万8千人。「日本さくら名所100選」に選ばれる桜が有名な小さな町だ。県で2校しかない体育科を持つ柴田は、2002、2013年夏の宮城大会で準優勝。東北大会は2013年秋、2015年春に出場している。OBにはロッテや巨人、楽天でプレーし、パ・リーグ新人王、盗塁王2回、ゴールデングラブ賞4回を受賞した小坂誠や、2015年のドラフトでDeNAから2巡目指名され、楽天でもプレーした熊原健人投手らがいる。県内では公立の実力校として知られるが、全国的にはまだ無名の学校だろう。
ファンの間で話題になるのは2012年に一新したユニホームだ。タテジマに赤いロゴ。「はい、似てるってよく言われます」と平塚監督も認めるデザイン。浦和学院とそっくりなのだ。だが、ユニフォームを変えても甲子園に手は届かなかった。書籍『あと1歩!逃し続けた甲子園』(田澤健一郎著・KADOKAWA刊)では「宮城の悲願校」の代表校に挙がっている。そのことにも触れると「アハハ」と笑いながら、平塚監督は自虐気味に話した。
「(佐々木)順一朗先生には確か11連敗。負け続けました…。僕らが勝ち上がっていくと、いつも目の前には仙台育英がいた。2013年夏は決勝で9回サヨナラ負け。ホント、大きな壁でしたよね」
しかしこの秋、その佐々木監督が2018年秋から指導する学法石川に東北大会初戦で逆転勝ちしてから、柴田は憑き物が落ちたように勝ち上がった。試合後、佐々木監督のもとに行き深々とあいさつする姿は平塚監督の人柄が現れていた。就任11年、初めて憧れの名将に勝つことができたのだ。

東北大会を勝つために
準備した2つの秘策
東北大会で勝つために、平塚監督にはある秘策があった。走塁だった。
「相手校は強豪校ばかりですから、県大会のような盗塁やセーフティバントは簡単に通用しない。エンドランか送りバントの後、1死二塁からヒット1本で点を取る練習ばかりやっていました」と打ち明ける。
今年のチームは1番我妻秀飛(2年)、3番舟山昂我(2年)、5番村上太生輔(2年)ら50mを6秒前半で走る俊足ぞろい。長打は狙わず、繋ぐ意識を心がけた。遠藤瑠祐玖(るうく)主将(2年)は「ジャンケンで勝ったときはすべて先攻を取っていました」と胸を張る。東北大会5試合すべて先攻。うち3試合が初回に先制点を取った。対戦した八戸学院光星の仲井宗基監督は「(俊足の)データは頭に入っていたがケアできなかった。一から立て直します」と敗戦の弁。大会前、教育実習で母校に帰ってきていた2016年夏4強の鈴木謄磨(とうま)元主将(仙台大4年)から走塁のコツを学んでいたことも生きた。
もうひとつの勝因はエース谷木亮太(2年)の好投だ。谷木は球速130キロ前半ながら抜群の制球力でゴロの山を築いていった。「熊原もそうだったのですが、球質がいいんです。スピードガンの数字には出ないキレがあり、打者の手元まで伸びてくる」(平塚監督)。中学野球部時代は無名だった谷木。ベンチ入りを果たした2年夏に平塚監督からスライダーを教わり、そこから配球の幅が広がった。テンポよく投げる谷木の好投に打線も奮起した。

準決勝を前に、球数制限の壁
しかし、準決勝を前にある問題に直面した。そう、「1週間500球」の球数制限だ。平塚監督が苦しい胸の内を打ち明ける。
「(センバツをかけて)準決勝で谷木を投げさせるか、決勝に温存させるか。決断が難しかった。ドクターの検診も受けたうえで選手の意見を聞いたら『準決勝は絶対に勝ちたい。センバツに出たい。谷木でお願いします』と言う。決勝でボロ負けしてもいいのか? と聞いたら『僕たちが10点以上取ります』と。選手たちの目は真剣だった」。谷木は準決勝で一世一代の好投を見せるも、中1日後の決勝は先発を回避。そして大敗…。平塚監督は「あの時の自分の判断は正しかったのか今も悩んでいます」と吐露する。
本来は柴田も複数投手で臨む予定だった。しかし2番手投手で準備していた遠藤が大会前に肩を負傷。無理をさせるわけにはいかなかった。3位校としての出場であり1試合多かったことも響いた。東北地方の秋は短く、大会の日程調整の苦労は知っている。口には出せない複雑な実情があった。
東北大会敗戦後に
平塚監督が選手に贈った言葉
「東北大会の決勝は大敗でしたが、選手たちには『よく頑張った。俺は驚いたぞ。お前たちを誇りに思う』と言ってやりました。悔し涙を流す者もいましたが、歴史を作ってくれたことは間違いない。本当によくやってくれたと思います」
平塚監督はきっぱりと言い切った。仙台大学の室内練習場を借りての練習日。視線の先にはセンバツ出場校発表の1月29日を前に「今」の課題に黙々と取り組む選手たちの姿があった。柴田高校のホームページには高村光太郎の言葉が掲げられている。
「私たちの前に道はない、私たちの後に道ができる」
昨秋、選手たちが残した“道程”には、大きな価値があった。そして希望があった。


◆宮城県立柴田高校
1986年(昭61)創立、創部。土生義弘校長。校訓は自立・敬愛・英知・創造・忍耐・強靭。普通科、体育科。野球部以外の強化部はウエイトリフティング部、陸上競技部、柔道部、剣道部、水球部、体操部。野球部は2年=18人、1年=15人。女子マネージャー=1人。佐藤瞬部長(33)、平塚誠監督(48)。所在地=宮城県柴田郡柴田町大字本船迫字十八津入7-3
◆平塚誠(ひらつか・まこと)監督
1972年(昭47)10月3日生まれ。宮城県仙台市生まれ。仙台東から仙台大でプレー。外野手。泉、仙台向山で講師。村田で監督を4年務めたのち石巻(定時制)、河南(現石巻北)で野球部を指導。2010年4月に柴田に赴任。教え子に熊原健人(元楽天)など。体育教諭で3年学年主任も務める。
次回「こうして僕らは強くなった! 東北大会準優勝を勝ち取った練習初公開」に続く