【あの球児、今何してる?】猪原隆雅(大冠―日本体育大学)

4年前にインタビューした球児達も今はもう大学4年生。あの頃語ってくれた夢は叶ったのでしょうか? 高校時代を今はどんなふうに振り返ってくれるのでしょうか? 間もなく社会に羽ばたくあの頃の球児達に再びお話を聞きました。今回は大冠高校から日体大に進んだ猪原隆雅さんを尋ねました。

全然泣かなかった高校最後の試合

4年前のインタビューこちら

——4年前になりますが、高校3年生の時に「Timely! web」に掲載後、周囲の反応、反響などはありましたか?
引退してからインタビューを受けたのですが、やはり夏の大会で決勝まで行ったことの反響も大きかった時期でしたので周囲の方々から「見たよ!」と声をかけていただくことが多かったですね。

——いま当時のインタビューをいま読んでみてどうですか?
訊かれたことに対しては答えてはいるんですけど、内容が薄いなぁと思いますね。大阪人なのに笑いもないし、つかみもダメですね(笑)。

——高校最後の夏が終わったあとのことを覚えていますか?(大阪大会決勝で大阪桐蔭に8-10で惜敗。猪原さんは4番として4安打4打点の大活躍)
一切泣かなかったことを覚えています。冬の練習などで「打ち勝とう!」とやってきたことが全部出せた試合でしたし、悔しさよりも持てるものを全部出せた達成感、ここまでやってきて良かったなという気持ちの方が強かったですね。全然泣かなかったので逆に親に心配されました(笑)。

——キャプテンとして最後に後輩たちにどんなことを話したか覚えていますか?
自分たちの代では冬期間の素振りノルマをそれまでの1日1500〜2000から3000にあげたんですけど、それでも決勝の壁、大阪桐蔭の壁は越えられませんでした。だから僕たち以上のことをやらないと大阪では8回勝てないし、勝てたとしても甲子園では直ぐに負けてしまう。自分たちが思っている以上に努力しないとダメだぞ、みたいな話をしました。

——試合に負けた直後、東山監督はどんな話をされましたか?
肩を振るわせながら「お前たちの学年を甲子園に連れて行ってやれなかったのは自分の責任だ」と涙をこらえながらお話されていたことを覚えています。。

——その東山監督の言葉をどのように受け止めましたか?
自分はキャッチャーをしていましたので、配球面でもっとどうにかできたんじゃないかと、最終的に2点差で負けたのですが、あと2点、3点が取れなかったのは自分たちの力不足でしたので、東山先生にそんなことを言わせてしまって申し訳ないと思いながら聞いていました。

——ちなみに当時の大阪桐蔭、錚々たる顔ぶれだったと思いますがキャッチャーとしてどのバッターが一番怖かったですか?
1番から9番まで気を抜くところがないすごい打線だったんですけど、中でも足もあって長打もあってというところで2年生だった藤原君(恭大/千葉ロッテ)ですね。彼を出してしまうと2番以降に強打者も揃っていましたので、塁に出すことも嫌でしたね。

——大冠高校は打撃練習に特に力を入れているチームだったと思いますが、高校と大学での打撃練習に大きな違いなどはありましたか?
高校時代の方が圧倒的にバットを振ってはいるんですけど、大学では自分で考えることが多くなりますし自分に任されるメニューも多くなります。ですので、質という面では圧倒的に大学の方が上だと思いますし、そういったメニューの中で僕自身も大学で大きく成長できたと思っています。

——高校時代に「もっとこうしておけばよかった」と思うことはありますか?
高校の頃はバッティング練習に力を入れていましたので、本格的なキャッチャーの練習はバッティングほどはやっていませんでした。大学に入ってから初めて本格的なキャッチャーの練習を経験しましたので、高校の時にもっと練習をしておけば、もしかしたら大学でもキャッチャーとして活躍できたのかなって思います。

——進路として日体大を選んだ理由は?
一番の目標はプロ野球選手になることだったんですけど、高校野球の指導者や体育教員に向いていると東山先生に言われて、そこから進路として日体大を意識するようになりました。

——猪原さんが入学する前年に日体大は大学日本一になっていますね。「大学日本一」のチームの練習に初めて参加したときのことを覚えていますか?
レベル的なことはもちろんですけど、印象に残っているのは「声」ですね。高校では全員で声を出して盛り上がるということを大事にしていたんですけど、日体大では空気が張り詰めている緊張感のある中で大きな声で的確な指示が飛んでいました。それを見て、ここで4年間自分がやっていけるのかなって不安な気持ちになりましたね。

プロを目指して社会人野球へ!

——他の大学野球部にはない、日体大野球部の良さはどんなところですか?
他の部活に日本トップレベルの選手や日本一、世界一を目指している選手がたくさんいますから、そういった選手と話す機会が多いこと。そのときにトレーニング法などの話をきけたり、刺激をもらえたり、そういうのは日体大野球部と言いますか、日体大ならではの良さだと思います。

——間もなく社会に羽ばたくわけですが、大学4年間をどのように振り返りますか?
技術的な部分でも成長できましたし、キャプテンをさせていただいた経験も大きかったと思っています。伝統があり部員数も多いチームのキャプテンですので、責任が伴う大変な役割だったんですけども、その分だけ人としても成長することができた、そんな大学4年間だったと思います。

——ミキハウスに就職先が決まっていますが、体育の教師、高校野球の指導者は今は目指さない?
正直、そこまで教師を真剣に目指していなかった部分もあったのですが、先日母校に教育実習に行かせていただいて、自分たちが高校時代に思っていた以上に先生方が生徒のことをしっかりと見ていたりだとか、生徒のことを色々と考えて授業展開なども考えておられたりだとかを見て、職業として素晴らしいものだということを改めて感じました。将来的には機会があればやってみたいという思いが芽生えました。

——今後の目標を教えてください。
ミキハウスで1年目からクリーンナップを打ち都市対抗で目立った活躍をする。そして2年後にプロに行くことです。

——今振り返ってみて、高校野球とは何でしたか? ひと言でお願いします。 
「分岐点」ですね。高校を選ぶ時点で野球を続けるか迷っていたのですが、兄も大冠だったこともあって東山先生から「うちで続けてみないか」と声をかけていただいて、野球を続けることになりました。あの時に続けていなければ今もどうなっているか分からないですし、今はこの道を選んで良かったと思っています。
 
——最後に母校の後輩たちに何かひとこと!
大学で親元を離れて初めて気づくことだと思うんですけど、高校の時に親の大変さ、ありがたさに気づいて欲しいと思います。
自分が朝早く起きて朝練に行くとき、親は自分よりももっと早く起きてお弁当を作ってくれています。夜遅く練習から帰っても、親は食事の準備をして待ってくれていたり、夜遅くに洗濯をしてくれたりしています。自分は高校時代にそのありがたさに気づくことができませんでした。高校時代にそこに気づけていれば、直接その気持ちを伝えたり、日頃の行動なども変わっていたのかなと思っています。
大冠高校の選手の皆さんには、親だけじゃないですけどそういった周囲の支えがあって高校野球ができているということを理解して、感謝の気持ちを忘れずに全力でプレーしてほしいなと思います。

ありがとうございました!

大阪桐蔭をあと一歩まで追い詰めた猪口くんに再び会ったら、、、

日体大野球部で主将を務めるほどの立派な青年になっていました。

(取材・文・写真:永松欣也/写真:大学提供)