【修徳】下町の巨漢右腕・篠崎国忠、キャチボールで掴んだ「リリースの感覚」
下町の巨漢右腕が迎える最後の夏。体格に似合わず手先が器用で最大の長所は「変化球」。希望進路をプロ一本に絞った右腕が、野球人生がかかった大会に臨む。
グラウンドに到着して紹介を受ける前から、「この選手が篠崎だろう」とすぐにわかった。全体的にたくましい肉体の部員が多い修徳野球部にあっても、身長192センチ、体重100キロの巨体は次元の違う威容を誇っていた。
篠崎国忠。よく「戦国武将みたい」と評されるその名は、両親の祖父の名前から一字ずつもらって命名されたという。この大型右腕が今や、プロ野球のスカウトから熱視線を浴びるドラフト候補になっている。
小学3年時に150センチだった身長は1年ごとに10センチずつ伸びていき、小学6年時には180センチに到達。小学生にして父の身長(175センチ)をも超えた。中学3年時には187センチまで伸び、そして高校進学後に192センチで止まった。
「保育園の頃から睡眠量が多くて、散歩にも行かずに昼寝していたと聞きました。小学生の時も学校から帰ってきたらすぐ寝て、食事もとらずに寝ることが多かったです」
修徳中では全国大会出場経験こそなかったものの、2年時に関東大会優勝など実績を残した。それでも、当時は「120キロ出ていたらいいほう」と球速で勝負するタイプではなかった。
「スピードは出なくてもコントロールはよかったので、ストレートには自信がありました。スライダーと大きなカーブでもある程度勝負できました」
キャッチボールを重視する修徳中で「リリースの感覚が身についた」ことで、コントロールが安定。その一方で、制球を重視するあまり「縮こまって投げていた」という反省点もあった。高校進学後は投手指導を担当する山本将太郎助監督と二人三脚で取り組み、2年秋には最速141キロをマークしている。
プロ志望の篠崎にとって、この春は自身の存在をアピールする絶好の機会になるはずだった。ところが、背番号11をつけた篠崎がマウンドに立つことは一度もなかった。いったい篠崎に何が起きていたのか? 荒井高志監督が説明する。
「この春は背中に張りがあるということだったので、無理をさせず篠崎抜きで戦いました。5月下旬から投げ始めています」
ただし、この背中痛は篠崎の進化の裏返しでもあった。篠崎は言う。
「冬場に山本さんと話し合って、フォームを全部変えるイメージで見直したんです。バラバラだったフォームを直せば、もっとスピードが出るんじゃないかと思って」
山本助監督のツテをたどり、著名なトレーナーの井戸樹氏、北川雄介氏に投球フォームを指導してもらう機会を得た。篠崎は少しずつ自分がレベルアップしていくことを実感していた。
「自分はもともと体が開くのが早い投げ方で、上半身と下半身が同じように動いてしまっていたんです。そこで井戸さんに上半身と下半身による捻転の仕方を教えてもらって、並進運動からリリースまでの形がすべてよくなりました。北川さんにはリリースのコツを重点的に教わりました。今までとは感覚が全然違います」
投球フォームを改善したことで、篠崎は恵まれた肉体をより効率的に使えるようになった。直後に発生した背中の張りは、「今まで使えてなかった部位だから」と篠崎は前向きに受け止めている。
一方、冬場のトレーニングの成果で体重は100キロの大台に達した。昨秋時点では92~93キロ程度だったが、「7キロ増やす」という目標を立てて実現したのだ。
背中痛から復帰後の練習試合では、自己最速を4キロ更新する145キロをマーク。篠崎の類まれなポテンシャルを考えれば、その数字はあくまで通過点に過ぎないだろう。
そして、篠崎という投手の最大の長所は「変化球」にあるのかもしれない。130キロ台でストレートの軌道から落ちるフォークは攻略困難で、中学時代から自信を持つカーブやスライダーの精度も高い。大型投手ながら指先感覚に優れている点は、篠崎の投手としての価値を大きく高めるだろう。
希望進路はプロ一本。春の公式戦で投げられなかった篠崎にとって、この夏は自身の野球人生がかかった大会になる。
それでも、篠崎は「自分の力を見せたいという過剰な思いはありません」と語る。
「一番はチームが勝つこと。自分が投げても投げなくても、チームの勝利のために尽くしたい。それがベンチに入れなかった3年生や、応援してくれる保護者への恩返しになるので」
まずは目の前の一戦、一戦に集中する。修徳の東東京大会初戦は、7月15日の3回戦(江戸川区球場)が予定されている。
下町の巨漢右腕は、どんな姿を披露するのか。その時は刻一刻と近づいている。
(取材・文・写真:菊地高弘)