「俺、サッカーが下手なんやな…」田中パウロ淳一が忘れられない「中村憲剛の何気ない言葉」
アスリートが競技を始めてから現在までの人生を折れ線グラフで表現し、その浮き沈みを時系列に沿ってエピソードとともに語っていただく企画「アスリート・ジャーニー」。今回は、JFL(※)・栃木シティフットボールクラブに所属する田中パウロ淳一選手に、サッカー実況アナウンサーの原大悟がインタビューしました。※インタビュー実施時は、関東サッカーリーグ1部所属。その後、全国地域サッカーチャンピオンズリーグ2023にて優勝し、2024シーズンのJFL昇格が決定。
複数のJクラブでプレー経験のある田中選手が、それぞれのチームで過ごした日々を振り返り、今後の目標を語ります。日本サッカー界のレジェンド・中村憲剛さんや日本代表でも活躍する古橋亨梧選手との関係性も明らかに…!
川崎フロンターレに加入、1年で退団したワケ
原 まずスタートは「川崎フロンターレ加入」からですね。高卒で加入されました。
田中 プロになることは通過点に過ぎないと思っていたので、サッカー人生の折れ線グラフは上でも下でもなく、真ん中にしました。ホッとしたというのが当時の心境です。
高校2年生の時には、プロになると決めていました。この頃は、大学から練習参加の要請やスカウトが結構来ていましたが、僕はめちゃくちゃ拒否していました(笑)。
というのも高校1年生の時に、フランスのチームに参加したことがあり、変な自信があったんですよね(笑)。その時点で僕は上手くないし、所属チームも優勝するほど強くないとわかっていたのですが、いずれプロには絶対なれるとなぜか確信していました。
原 いくつかのプロチームの練習に参加したうえで、加入が決まったのですか?
田中 参加したのは、フロンターレだけです。練習では何もできませんでしたが、僕を成長させるつもりで獲ってくれたのだと思います。
原 そこから折れ線が下降して「退団」とあります。
田中 入団2年目の3月末にフロンターレを退団しました。在籍年数は1年ちょっとですね。海外へ行きたいという気持ちもあったのですが、直接的なきっかけは、試合に出られなかったことです。今考えると当たり前なのですが、高校までその経験がなかったので「このまま終わっちゃうんじゃないか」と焦っていました。
選手のレベルがすごく高かったんです。U-18、20、23などで代表入りしている選手が多く、同期に風間宏矢選手(現・ジェフユナイテッド千葉)や、1学年上には大島僚太選手がいました。僕らはリオオリンピック世代で、二人は日本代表に呼ばれたりしていましたが、僕は選ばれなかった。そして練習もピッチ外で見ていることが多かったんです。
とくに覚えているのが、ある試合に出た時のことです。僕がミスを連発してしまって、そうしたら中村憲剛さんが僕のところに来て「俺にパスしたら大丈夫だから」と言ったんです。
若手のミスに普通ならキレるところですよ。気になる選手や、もっとできるだろうと思う選手には怒ると思うんです。でも、それがなかった。「俺、相当下手なんやな」と思い、そこからガーッと落ちまくりました。
メンタルどん底で、ツエーゲン金沢に移籍
原 下降したままツエーゲン金沢へ移籍されます。
田中 フロンターレ退団から1年後になります。その間は海外へ行っていましたが、クラブがなかなか決まらなかったこともあり、ゼロからのスタートという気持ちで金沢へ入団しました。
原 川崎退団と金沢加入が同じ低い位置ですね。フロンターレ入団の時とは心境が違いましたか?
田中 本当はフリップに入らないぐらい、メンタルはどん底です。ただ、金沢への加入はここからもう上がるしかないという気持ちで挑んでいます。もう何もない状態だった僕にオファーしてくださった金沢には、めっちゃ感謝しています。
原 入団後は、試合にすぐ絡めたんですか?
田中 僕が経験したことのない戦術をしていたこともあり、絡めなかったです。ただ、いろいろな先輩方から学ぶことが多く、飛び道具というか切り札で使ってもらえるようになりました。自分の新しいプレースタイルを見つけられて、こんな形もあるんだなと思えたんです。
FC岐阜に移籍して得られた「変化と成長」
原 ご自分の武器を徐々に見つけられたという感じでしょうか。次の移籍先、FC岐阜へは折れ線がグッと上昇していますね。21歳にして、3つ目のチーム移籍です。手応えがありましたか。
田中 当時、岐阜の監督だったラモス瑠偉さんから、「リオオリンピックを目指さないか?」と声を掛けてもらったんです。
僕のようなドリブラータイプの選手が好きだったみたいで、口説いてくれました。もともとサッカーの世界ではもう無理だという思いで退団をしたので、そういうことを忘れていたというか、いえ、忘れてはいませんけど(笑)…。
原 もう1回燃え上がるような?
田中 はい、そういう思いで岐阜へ行きました。僕のことを見てくれている人もいるんだなと思いました。
原 その後はどうでしたか?
田中 ラモスさんのあと、大木武さんが監督になられました。大木さんには、「気分でドリブルしているような奴は使えない。いろいろなプレースタイルを身につけて、自分で整理できるようにしろ」と言われましたね。そこからサッカーノートなどを使いながら自分のことを整理できて、「こっからやな!」という気持ちになれたんです。
原 ラモスさんから大木さんへ監督は変わり、また新たに成長されたようですね。
田中 それまではひとりで打開したいという気持ちが強かったのですが、チームスポーツの楽しさを改めてすごく感じました。
試合に出られない悔しさから大木さんに何回も「自分を使ってほしい」と直談判したことはあります。ただ試合が始まってみると、みんなが活躍する姿を見て嬉しく思えたんです。
レノファ山口へ…監督からの「口説き文句」とは
原 サッカー選手としてどんどん成長されて、次はレノファ山口FCに移籍されますね。こちらも折れ線グラフは上昇しています。
田中 岐阜で3年ほどプレーした頃に、当時山口の監督だった霜田正浩さんが岐阜まで来てお話をしてくださいました。
他のチームからも声をかけてもらいましたが、山口を選ばせていただきました。僕を欲しいと言ってくれたチームのなかで、山口は最もオファー金額が低かったのですが、霜さんの熱意に心を打たれたんです。山口では僕のプレースタイルが間違いなく活きる、という気持ちで決めました。
原 もうお金じゃないですね。
田中 めっちゃ迷いましたけどね(笑)。周りからは「岐阜に残った方がいい」と言われましたし、僕のスタイルをわかってくれるのは大木さんしかおらへんっていうのはあったんです。それくらい、僕は岐阜で成長できました。
ですが、「甘えてはいけない」「もう1つレベルを上げないといけない」という気持ちで山口への移籍を決意しました。
原 その時点では、オリンピックはもう終わっていますよね。新たな目標やビジョンは見えていましたか?
田中 霜さんに「J1へ行きたいか?俺はお前をJ1に連れて行きたい」と言われました。振り返ってみると、ラモスさんにはオリンピック、霜さんにはJ1と、口説き文句に弱いですね(笑)。
原 でも、そんなことをズバッと言ってくれたら心に響きますよね。折れ線グラフはさらに上っていますから、この移籍は良かったわけですね。
田中 良かったわけではないです…試合に出られなくなりました。フォーメーションが5バックに変わったことで、僕のポジションである前のウイングがなくなったんです。これはヤバい、生き残れないと思って、左のウイングバックで1回やらせてください、と言いました。
最初の方こそ、すぐに交代させられましたが、霜さんとウィングバックのやり方について何度も話し合ったり、霜さんのやりたいサッカーに合わせたりして、乗り越えた感じはありました。また新しく自分のプレースタイルを確立できた感じがしたんです。
原 試合に出られないと凹んでいるだけじゃなく、ポジションを変えたと。成長されましたよね。続いての移籍先は、松本山雅FC。こちらもさらにグンと伸びた上昇曲線上にあります。
松本山雅FCで“引退”を留まらせた「頼もしい存在」
田中 当時、松本はJ2で順位は低かったんですよ。でも、メンバーは明らかにエグかったんです。J1に絶対に行きたいという思いで移籍を決めました。
田中 佐藤和宏選手(現・ヴァンフォーレ甲府)がキャプテンでしたし、パスがめっちゃ上手い選手が集まっていたんです。それならボールが僕に集まると思いました。
また、僕は山口にいた頃にYouTubeやTikTokなどのSNSを始めたんです。松本のサポーターはすごく多いので、SNSで発信する意味があるとも思ったんです。それも込みでの加入です。
原 実際に移籍してみてどうでしたか。
田中 試合に全然出られなかったんですよ。途中出場さえも無理でした。最初はパスを繋ぐサッカーをやっていたのですが、あまりうまくいかなくて。蹴るサッカーが主体になって、僕が活きるところがなくて。
苦しんで、何回も放り出しそうになりました。でも、当時のメンバーがいたから踏み止まれたんです。みんながいなければ、多分サッカーを辞めていたと思います。
原 山口では監督の戦術に合わせるというやり方を見つけられましたが、それを学んだうえでも苦しかったんですか?
田中 松本のスタイルも、僕がまだ経験したことのないものでした。それに、メンバー外はひたすら走るトレーニングだったんです。精神的に厳しい状況でしたが、他の選手はその走りのメニューをめっちゃやっていたんですよね。ベテラン選手も若い選手も、みんな前を向いて走っていたんです。
それを見て、気持ちが折れている場合じゃないと思いました。また、自分がうまくいっていない時に、周りが声をかけてくれたり、食事に誘ってくれたりしたことにすごく助けられたんです。そして最後の最後に運も回ってきて、ゴールも決めることができました。その時に、周りの選手たちからパワーをもらえたということを実感しましたね。
ですから、松本はサッカーの技術だけでなく、気持ちの面でもすごく成長できました。いろいろ救われて、勉強させてもらいました。
栃木シティで僕ができること
原 そして、在籍中の栃木シティへ移籍します。
田中 僕はこれまでのサッカー人生で、物事の流れの良し悪しは、周りの環境に大きく影響されるということを学べたと思っています。今年30歳になるので、そうした経験を若い選手たちにちょっとでも還元できたらいいなという気持ちでいます。
そのうえで、JFL昇格という目標をしっかり達成させないといけない。そして、Jリーグに行きたいです。このチームはスタジアムなどの設備環境も整っていて、Jに一番近いと確信しています。
原 栃木シティのサッカーは、合っていますか?
田中 合っていますね。攻撃的で、試合でどれだけ勝っていても、時間稼ぎや引いて守るようなことはしない。そうした魅力的なサッカーをたくさんの人に観てもらいたい、と監督が言っているので、スタイルもそういうことなのだと思います。
原 これまでずっとJリーガーとしてプレーしてきましたが、現在は地域リーグ所属です。施設や練習などを通して、Jリーグとの違いを感じることはありますか?
田中 Jリーグにいた頃はとても恵まれていたのだなと、ありがたみをとても感じています。今まで練習着を自分で洗濯したことはなかったですからね。当たり前のことですが、実際やってみると、ちょっと面倒くさい(笑)。かと言って汗臭いし、すぐに試合もありますから放っておくわけにもいかない。チームがもっと上のカテゴリーに行けば環境も良くなると思うので、もっと上に行って若手たちにもうちょっといい暮らしをさせてあげたいですね。
セルティックFC・古橋亨梧との知られざる共通点
原 個人としては、岐阜ではオリンピック、山口はJ1でした。今の目標は何でしょうか。
田中 Jリーグでもう一度プレーする姿をみなさんに見せたいと思っています。今、僕は落ち目だと思っている人が多いと思います。
この僕のサッカー人生の折れ線グラフも、山あり谷ありとなっていますが、それは当時のメンタルのことを言っているだけです。カテゴリーは下がりましたが、僕自身は全く落ちていません。もう1回上がれるんだぞ、というのは見せたいです。
これから先がさらに良くなると考えれば、どん底部分に記した退団があったからこそ、その未来に行き着くわけです。人生にどん底はないんです!
原 素晴らしいお言葉ですね。
田中 よく質問をいただくんです。サッカースクールに通っている子どもから「トレセンに入れなかった。もうスカウトは来ませんか?諦めた方がいいですか?」と。
僕はトレセンなんて入ったことがないし、全国レベルの選手じゃなかったですからね。中学の頃は「あの坊主誰やねん。あいつキックオフドリブルするだけやん」って言われていました(笑)。その時、「絶対にこいつらを越したろ」と誓ったんです。
岐阜でチームメイトだった日本代表の古橋亨梧選手(現・セルティックFC)もずっと下から頑張ってやってきたんです。そういう悔しさ、反骨精神って、バネになる可能性がすごくあるんですよ。
金沢は決して下ではないですし、岐阜も真ん中ではありません。本当の折れ線グラフは右肩上がり、人生は積み重ねです!
原 心に刺さる方は多いのではないでしょうか。ありがとうございました!