【佼成学園】藤田直毅監督|「一番厳しいルート」だった社会人野球監督から高校野球監督への転身

1960年代から70年代にかけて春2回、夏1回の甲子園出場を果たした佼成学園。その後低迷した時期もあったものの、2012年夏の西東京大会では決勝進出を果たし、2015年春、2017年秋には関東大会にも出場するなど激戦区の東京でコンスタントに上位に進出している。そんなチームを指導する藤田直毅監督に、監督としての失敗と後悔についてお話しを聞きました。

大きかった社会人野球での監督経験

藤田監督は佼成学園OBで、卒業後は立教大で投手としてプレー。その後、立教大の助監督、社会人野球のリクルートで監督を務めた後、母校に戻り1999年から監督を務めている。そんな藤田監督が指導者を志すきっかけになったのは大学時代の経験だったという。

「大学に入った時にとにかくレベルの高さに驚かされました。特に2年先輩で、その後三球団競合のドラフト1位で西武に入団することになる野口裕美さんが強烈でしたね。ストレートも変化球も見たことのないレベルのボールで。『これは無理だよ…』って言ったことを覚えています(笑)。でもせっかく入ったのだから何とか大学野球を全うしようと思っていて、2年生になって下級生が入ってきた時に色々と自分の思うことをアドバイスしたら感謝されたんです。それで自分のような選手でも役に立つことがあるのかと思って、指導者を志すようになりました」

大学卒業後は一般企業に就職しながら出向という形で立教大の助監督に就任。その後、新たに立ち上げた社会人野球のリクルートが、東京六大学の選手を多く採用するということもあって声がかかり、監督を務めることとなる。藤田監督自身は社会人野球でのプレー経験はなかったが、この時の経験は非常に大きかったという。

「当時の東京はチーム数も今よりもかなり多くてなかなか勝つことができませんでしたが、アマチュア野球の最高レベルを知ることができたのは良かったですね。対戦したチームに後にプロに行った選手ももちろんいましたけど、そうじゃなくても凄い選手はたくさんいました。プロ野球ではなくてもここまでになれるのだということを知ることができて、選手に対して妥協しなくなったというか、諦めずにやったらここまでになれるんだというのが分かったのは大きかったです」

一方的な指導になっていた監督就任当時

その後、リクルート野球部の休部もあって教員として母校に赴任。1999年には監督に就任している。しかし先に大学野球、社会人野球の指導を経験して高校の監督になるというケースはそうあるものではない。そしてその経験が逆にマイナスになった部分もあったという。

「高校の監督になった時に、自分の恩師にも『一番厳しいルートだな』と言われたんです。どういう意味かというと、アマチュアのトップレベルでやっていたところから、一気にレベルが下がって、そのギャップが大きいという話です」

藤田監督も当然それは意識しており、目線を高校生に合わせて十分に下げないといけないことを自覚して取り組んでいた。

「当時の佼成学園はかつて甲子園に出た時とは違って、本当に都大会でもすぐに負けるようなチームだったんです。今思い返せば、自分では目線を下げているつもりでも、そうはなっていなかったのかなと思います。これまで自分が大学や社会人で得てきたことを教えてやろうという一方的な指導でしたね。まだ若かったということもありましたけど、とにかく『自分が何とかしてやろう!』という気持ちでやっていて、苛立つことも多かったですね。それが上手くいかなかった原因かなと思いますね」

藤田監督就任当時の佼成学園はほとんどが付属中学から内部進学してきた選手だけで構成されており、かつての甲子園出場校という雰囲気は全くなかった。そこに東京六大学、社会人野球という高いレベルを知った指導者が来ても、いきなり結果を出すのは簡単ではなかった。

「2005年に学校が強化部に指定してくれて、そこから選手も入ってくるようになりました。ただそれでも結果が出ない。2007年春に創価高校さんにコールド負けしたときには校長に辞表を出しました。強化もしてもらって2年経って、ある程度戦えるかなと思っていたらこの結果でしたので」

果たしてそこからどのようにして古豪復活への道を歩み始めたのか? 後編では現在の取り組みとあわせて紹介する。(取材・文:西尾典文/写真:編集部)

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