投手育成の名伯楽、高知商谷脇一夫元監督の「投手を大切に育てる野球」
名門、高知市立高知商業高校は、今夏、明徳義塾高校を高知県大会の決勝で下して12年ぶりに甲子園に出場し、3回戦まで勝ち進んだ。 谷脇一夫氏は74歳。高知商の監督として春4回、夏9回、甲子園に出場し、優勝もした名将だ。特に投手の育成には定評があった。谷脇氏に「投手の育て方」を中心に話を聞いた。
名将松田昇監督は「データ野球」
私が小さい頃は、少年野球がなくて小学校ではソフトボールをしました。そして伊野中学(現いの町立伊野中学校)に進んでから野球を始めました。伊野中学は名門で、尾崎靖夫(大洋)、山崎武昭(東映)などのプロ野球選手が出ています。
そして高知商に進みました。ポジションは捕手です。監督は名将と言われた松田昇先生です。先生は徹底的なデータ野球でした。1961(昭和36)年、2年生の時に高橋善正(東映、巨人)とバッテリーを組んで夏の甲子園に出た時は、先乗りスコアラーを派遣して甲子園練習を見させて、誰がどんな球を投げるかを徹底的に調べていました。
当時のミーティングのノートもあります。試合前にはこのバッターはこの球に強いとかミーティングで話していました。
松田先生は、ここぞというときには高橋にシュートを投げさせていました。シュートの連投です。痛めたようには思えませんでしたが、あとで高橋に聞くと肘が曲がっていたようですね。
社会人野球で優秀選手

私はそこから社会人野球の鐘淵化学に入社し、11年間プレーをしました。最後2年は兼任コーチでした。入社5年目から6年連続で都市対抗に出場し、24歳の時に都市対抗で優秀選手賞をもらいました。
私は捕手としては肩が弱かったので必死に練習しました。ナイターのときも終わってから一人で練習しましたし、朝も1時間練習してから出社しました。
社会人でバッテリーを組んでいたのは後に阪神へ行った谷村智啓や近鉄に行った井本隆、オリックスへ行った宮田典計などです。井本はまだ私が現役の時に自宅へ行ってスカウトしました。
現役を引退して1年間勤め人をしていた時に母校の高知商から監督をやらないかと声をかけてもらいました。30歳のときでした。
当時の高知商は強かったので、私はすぐにでも甲子園に出場できると思っていましたが、なかなか勝てませんでした。監督が未熟だったからです。新米監督がみんな陥る錯覚ですね。
3年間も出場できなかったので辞表を出さないかん、とまで思いました。そこから何とか頑張って、18年間の在任中に夏9回、春4回、甲子園に出ました。
当時の高知ではまだ明徳義塾は台頭していなくて、高知商、高知、土佐が3強で、これに続いて伊野商や中村などの高校がありました。
高校野球は「守りの野球」が基本

私は基本的に技術はよう教えん、教えられるものじゃないと考えています。でも、野球は教えられる。こうやった方が勝つ確率が高いよ、とはいいます。
就任当初は、社会人の野球のやり方を導入して、ディレードスチールや捕手からサインを出して投手がけん制をしました。これが面白いようにうまくいきました。まだ当時の高校野球にはそういう技術はなかったんです。
松田昇先生も「守りの野球」でしたが、私もそうでした。
よく試合前に「今日は5点勝負、7点勝負の打撃戦だな」という監督がいますが、これは良くないと思います。そういう発言を監督がすると、選手も打撃戦だと思ってバットを振り回します。そして取れないと焦ってしまいます。二番手の投手でもいいピッチングをされると打てません。
やはり1-0、2-1の勝負を目指すべきでしょう。その上で結果的に5点取れればいいですが。
高校野球は投手を中心にした「守りの野球」が基本だと思います。
「投げ込み」は故障につながる

当時から、高校球界には、いい投手を作るには300球を1週間続けて投げさせないといけないという考えがありました。
でも、私はそういう練習はさせませんでした。一番怖いのは故障です。高校生に300球も投げさせたらまず8割は故障するのではないですか。
当時、最強と言われたPL学園でもそんな投げ込みはさせていなかったと思います。桑田真澄投手もそんなに投げていないはずです。
他校の監督からも「投げ込みをさせないといけない」と言われましたが、練習の中で100球以上投げさせることはありませんでした。
公立高校には、私立のように良いピッチャーが3人も4人も来ることはありません。1人良い投手が来てくれたら、その子を故障しないように大事に育てなければなりません。
トーナメント大会は上に行くと3連投4連投になります。高校生くらいの頃は、完投しても一晩寝れば元気になったものです。私はその点は心配していませんでしたが、それも日ごろ無理な投げ込みをさせていなかったからかもしれません。
ただ、私は普段でもエース投手には毎日、少ない球数でも必ず投げさせるようにはしていました。例えば前日試合で完投した投手は、翌日は、打撃投手として1か所で16球(エンドラン2打席分)とか短い球数を投げさせるようにしました。
6人の教え子がプロで活躍

公立高校ですから、スカウトはしませんでした。来てくれた子で戦いました。
私の教え子でプロに行ったのは、
森 浩二(阪急・オリックス、ヤクルト)
中西清起(阪神)
津野 浩(日本ハム、広島、中日、ロッテ)
中山裕章(大洋、中日)
岡林洋一(ヤクルト)
岡 幸俊(ヤクルト)
の6人です。みんな投手で、全員、一軍で活躍してくれました。
彼らは運動能力が高くて、中学から投手をしていました。そういう子を故障させずに上に上げるのが私の役割でした。
私の在任中の最後の方で、もう一人吉本晃司という投手がいました。運動能力が高くて、足も速くて素晴らしい投手でしたが、故障しました。あとで医師に聞くと、少年野球のときの投げ過ぎで、肩の関節がおかしくなっていたんですね。吉本は川崎製鉄水島に進みましたが、結局、故障で野球を断念しました。
高知は野球どころです。少年野球が盛んで毎週ゲームやっていました。いい投手は毎週投げていましたから、高校上がった段階で故障している子が多かったんですね。
ひじを上げて、体を使って投げるのが基本
私は野球選手を見るとき、足と肩を見ます。足が速くてスローイングがいい子がいい野球選手です。
投げ方の基本は野手も投手も同じです。しっかり肘が上がって、関節をよくまわすこと。右投手なら右足をプレートにおいて、そこから体をひねって投げます。それは野手も同じです。
「違うのはモーションが大きいか小さいかだけや」とよく言いました。
そういう体の使い方をしないと、故障につながります。
肘が下がって担ぐような投げ方になっている子は制球も悪くなるし、怪我も多いんです。
松坂大輔投手は、若いころは素晴らしいフォームで投げていましたが、年とともに肘が下がっているのが気になりますね。
私はその後、高知市の姉妹都市である北見市の北見柏陽高校で野球部の監督、コーチを務めてまた高知に戻りました。
昭和の時代とは環境が大きく変わっていますが、今も「投手の基本」は変わらないと思います。高校野球の指導者は、投手を大事に育ててほしいですね。(文・写真:広尾晃)