【川和】平野太一監督|野球への情熱、教員としての役割。ドミニカと大学院での学びと気付き
県内有数の進学校である神奈川県立川和高校。今年はエースの濱岡蒼太投手に注目が集まっているが、そんなチームを指導する平野太一監督はこれまでも津久井浜、瀬谷と公立高校で実績を残してきた指導者だ。平野監督にこれまでの指導者生活を振り返ってもらいながら、過去の反省や後悔を今の指導にどのように生かしていることなどを聞いた。
初赴任の学校で受けたカルチャーショック
平野監督は大分県の出身で、高校時代は大分県立別府鶴見丘高校でプレー。卒業後は岡山県の川崎医療福祉大へ進学して選手を続けながら教員免許を取得し、神奈川で教員生活をスタートしている。そんな平野監督が指導者を志したきっかけはどんなものだったのだろうか。
「小学校の時に野球を始めて、そこから野球を色々探求したいという気持ちが強くなって指導者ということを考え出したのは中学の時ですね。高校に入った時には大学で教職をとろうといことを決めていました。両親が教員だったというのも大きかったと思います。」
そんな平野監督が最初に赴任したのが津久井浜高校。しかしそこで大きなカルチャーショックを受けた。
「赴任して最初に生徒たちに『目標は何?』と聞きました。当然『甲子園出場です!』と返ってくると思っていたのですが、1人もそう答える子がいなくて、〝ベスト16〟や〝2回戦突破〟という子もいれば〝一戦必勝です〟という子もいてばらばら。『甲子園じゃないの?』と聞いても、すごく微妙な反応でしたね。生徒たちの答えを否定はしなかったのですが、がっかりしたことは確かで、それが生徒たちにも伝わったのか『なんだこの人?』みたいな目で見られたのを今でも覚えています」
それでも平野監督就任後の津久井浜は力をつけて2012年夏にはベスト16に進出。その後赴任した瀬谷でも2016年夏には東海大相模を相手に6対7と接戦を演じている。指導者としては順調にキャリアを積んでいるように見える。しかし平野監督自身は決してそうではなかったと話す。
「大学の野球部に入った時も『神宮を目指します!』と言ったら先輩たちに笑われました。出場はできませんでしたが、そこを目指して頑張っていたので僕個人としてはタイトルはとることができました。『教員になります!』と言っても教授からは『教員免許はとれても合格する学生はいない』とも言われましたけど、独学で学んで採用試験に一発で合格できました。自分としてはそういった経験があったので『情熱と理屈さえあれば結果は出る!』と思っていました」
しかし、誰しもがそう感じているわけではないということを、高校野球の指導をするなかで痛感させられた。
「自分は野球でも採用試験でも結果が出たので、良い意味で勘違いができていたのですが、そういうマインドになれない子も実際は多い。特に神奈川の高校野球となると、そういうことをより思いづらい環境なんだなということを実感しました。幸いなことに津久井浜の生徒たちは本当にピュアな子が多くて、すごく救われた部分は大きかったです。かなり厳しく接していた部分もありましたから」
赴任2年目以降は「津久井浜には熱心な指導者がいる」ということを知って入部してくる生徒が増えた。ただ中にはそうとは知らずに入ってくる子も当然いたという。
「結果が出始めた頃だったのですが、そのタイミングで辞めてしまう選手も出てきてしまったんです。『思っていた部活とギャップがある』という理由だったと思いますが、自分は誤解されることと人が去ってしまうことが本当に辛いので、その時は色々考えました」
「うちの野球部はこういうチーム」だということをしっかり発信していく必要性に気付いたのはこの頃からだ。
反省を生かして前任の瀬谷と現在指導している川和では積極的に中学生に対しての練習会を実施し、野球部を知ってもらう取り組みを行っている。プロも注目するエースの濱岡投手も練習会に参加して川和への入学を決めた一人だ。
ドミニカ視察と大学院での学びと気付き
津久井浜から異動する時には、生徒も保護者も涙を流しながら送り出してもらったという平野監督。胸中に去来したのは「もっと生徒の話を聞けば良かった」という後悔だった。
しかし、頭では分かっているものの、瀬谷に移ってからもその反省がなかなか生かされることはなかった。
「人間、簡単に変われないというか、生徒と議論をする前に自分の『正義』を通したいという気持ちが強く出てしまうことが多かったですね。毎日帰宅の車中では『言い過ぎたんじゃないか・・・・・・』『もっと聞く耳を持てば良かった・・・・・・』とか、自己嫌悪に陥るというか、悶々としてばかりいました」
そんな日々を送るなかで、自身が変わるきっかけがあった。瀬谷で4年目を迎えた6月に誕生した第1子の存在だった。
「親になって初めて『親心』が分かったというか、生徒たちも保護者の方からこんなに愛されていたんだということに気づいたんです。高校3年間って親からすると、子どもとして接する最後の期間じゃないですか? その大事な3年間に自分は携わらせてもらっている。しかも部活というかなり長い時間を一緒に過ごすわけです。そう考えると安易に狭い基準だけで色んなことを言うことはできません。親になって初めてそういうことを考えるようになりました。それがまず指導者として大きかったですね」
その年の冬には世界を広げるために具体的な行動に出た。ドミニカの野球を現地に視察に訪れた。そこで出会ったのがアントニオ・バウティスタというコーチだった。
「アントニオコーチからは『叱るタイミングも本当に考えているのか?』『みんなの前で叱ることが本当に彼のためになっているのか?』そういう話をされました。それを聞いて自分は指導者として怠慢だったなと痛感させられました。今は指導するのが難しい時代になったとも言われますけど、逆に昔が異常だったのかもしれませんよね。指導者が何か言えば選手が何も言わずにその通りに動く。それで勘違いしてしまう部分も多いと思います」
逆にアントニオコーチからは日本野球の素晴らしさも教えられた。
「時間通りに選手がしっかり集まること。規律の素晴らしさ。ドミニカではまずそれができない。国民性としてもっと誇った方が良いということを言われました。そういう部分が当たり前だと思ってはいけないんだなということを教えてもらいました」
ドミニカでの視察を経験した後、平野監督は指導の現場を離れ、体育科の教員として長期研究員として1年間授業の研究に従事した。横浜国立大学の大学院にも通い『プレイヤーに求められる指導者』についても研究した。
計2年間の研究を経て川和に赴任。2023年からは監督として指導の現場に復帰することになったが、色んな経験や反省を持ちながらも、決してスッキリしているわけではない。
「今でもこうしていくのが絶対に正しいと思って指導できているわけではありません。相変わらず色々考えることも多いです。ただ、指導者というのはそれで良いのかなということも思うようになりました。
例えば『妥協』という言葉って悪いイメージがどうしてもあったんですけど、今では良い言葉なんだなと思うようになったんです。何かをやる時に一番最適な点を突くというか、『中庸』みたいなイメージですね。そのために日々、生徒をよく観察しておく必要もあるのだと思います。自分は他の指導者から〝野球狂〟みたいに見られることも多いのですがそんなことは決してなくて、野球がなくても生徒のキャリアと成長に携わって、無条件に応援してあげるのが教員としての役割だと思っています。その気持ちはこれからも変わらずに持ち続けていきたいですね」
平野監督の体験談が多くの指導者の参考となり、学び続ける指導者が増えていくことに繋がることを期待したい。(取材・西尾典文/写真・編集部)
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